Bleu Saphir

22 ans のひとりごとブログ

旧岩崎邸庭園

2月も中盤に入り、寒い日が続きますね。お久しぶりのrumです

相も変わらずマイペースに更新していますが、文章を書くこと自体は好きだし、頭の中を整理したり表現力を磨いたりするのにも良いので、これからも続けていこうと思います。そして前回文体を変えてみて思いましたが、内容によって選ぼうかな

さて、先日旧岩崎邸庭園に行ってきました!今回はスペシャルガイドとして、通常は非公開である地下室や撞球室なども案内してもらえることに

朝整理券を取りに行ったら、9時配布開始のはずなのに、すでに9時前には午前の分が売り切れていました!(読みが甘かった…)なので午後参加することにして、午前は自分のペースで見て回っていました

現在の岩崎邸庭園には来客用の洋館、岩崎家の住居空間だった和館の一部、それに撞球室が残されており、往時は東京ドームほどの大きさがあったそう

まずは洋館から。内部装飾にイスラム風のスタイルがかなり取り入れられていることに驚きました。個人宅でミントン製のタイルが使用されるのは、大変珍しいようですね。また日本の高温多湿な気候を考慮して作られたベランダから、以前は左手に房総半島、右手には富士山の姿を見ることができたそうですが、今では右を見ても左を見てもビルの壁しか見えませんね

他にも金唐革紙や空中階段、バカラのグラスや当時で家2軒分ほどした(!!)という大広間の鏡&暖炉など、じっくり見て回りました

そしてその洋館と文字通り「つながって」、和館が存在します。背の高い欧米人をもてなすための洋館から入ると、とても天井が低く、窮屈に感じます。おまけに寒い…

財閥の社長ともなると豪華絢爛な暮らしをしていると思いがちですが、岩崎久彌の普段の暮らしは質素なものだったそうです。質実剛健、腹八分目。和館からそれが感じられました

その後はいよいよ地下室・撞球室の探索です。地下は見学用に整えることも何もなく、本当にむき出しの、ありのままの状態を見させてもらいました。地下は洋館だけでなく和館の下にもあり、往時は地下通路が迷路のように張り巡らされていたそうです。当時は子供達がそこでかくれんぼをしていたそうですが、私は夜には絶対やりたくないですね 笑

また地下に建てられたレンガの支柱は、地下のさらに2.5m下にまでささっており、建物を強固に支えているそう。設計者のジョサイア・コンドルは、日本の地震を経験してからより建物の地下(基盤)を重視するようになり、そのおかげで1923年の関東大震災のときも難を逃れ、大勢の地域住民を庭園内に避難させたそう。ちなみにこの支柱に使われているレンガには、桜の印が彫られていました

そしてその地下道を通り、撞球室に向かいます(この天井の低さ、ほとんどの外国人客は頭をぶつけたに違いない)。地下道から撞球室へとあがる階段は当時のままであるため、通過させられる人数に限りがあるそう。この撞球室は当時ではまだ珍しいスイスの山小屋風造りであることに加え、館内の一室ではなく別棟として建てられたという点でも珍しいのだとか。洋館での食事後、女性陣は婦人用客室でお茶をし、男性陣はこちらでビリヤードを楽しんだそう。ただ岩崎久彌本人はあまりビリヤードを好まなかったと言われており、大正時代にはすでに図書室として利用されていたこともあって、残念ながら台などは残されていませんでした(岩崎久彌は無類の読書家だったそうで、個人で70万冊以上所有していたとか)

フォトギャラリー。なお館内は撮影禁止だったため、写真は外観のみ ↓

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約120年前に建てられたこの岩崎邸には不明な点が多いそうで、地下では何に使われていたか分からないというサンプルが幾つも存在しました。図面が残されておらず、子孫の方々が亡くなられてしまった今、詳細を明らかにすることはとても難しいでしょうね。修繕においてもすでに当時の材料が手に入らなくなってきているそうで、改めて文化的建造物の維持の大変さ、そして大切さを認識しました

とても充実した内容でしたが、館内は土足禁止な上スリッパ等の用意がなかったため、薄いストッキングで行った私は非常に後悔しました…。なので冬場行かれる場合は、厚手の靴下を重ねて履くことをおすすめします!笑

それではこの辺で